科学する
先日、友人とお好み焼きを食べながらお話ししていると、友人が「もっと科学的にさあ」とか「ちゃんと科学されてない」など、「科学」という言葉を妙によく使うではないか。いわゆるメディアがよく使う「科学」(科学的に実証された=だから正しいとか、その逆ね)という言葉に嫌悪感を持っていた僕は、彼の使っている「科学」も同じようなものだろうと思い、科学主義批判を始める。
ここで、僕と彼が友人でなかったら、ふつう喧嘩になっちゃうんだけれど(笑)、僕達は友人だから、もちろんそんなことにはならず、建設的な“会話”が継続され、僕のいう「科学」と彼のいう「科学」が違うものだということに(当たり前ですね)気が付く。
一度辞書を引いて調べた方がいいよ、と彼がいうので、さっき(大辞泉で)調べてみると、確かに彼のいうような意味が書いてあった。
一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。
これならば僕も好きだし、大賛成。続いて、
また、その成果としての体系的知識。研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。(中略)広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。
うーん、なるほど、僕は「狭義の科学」、というか、自然科学的な絶対性・普遍性でもって社会科学・人文科学を語る科学者・フォロワーを無自覚に批判していたのだなー、と認識。
人の精神性(や身体性)が関わってくる事象に、“絶対”とか“普遍”を持ち出すのはちょっと難しいと思うよ(“ある”ようで“ない”ような?)。
うーん、嫌うあまり、いつのまにか「科学」をひとかたまりとして見ていてしまったようだ。そういう考え方が嫌いなのに(ゆえに?)。
落とし穴はいっぱいある。
つづく(かも)。