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不自由さと自由さ


シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(・オブ・ベネズエラ)のアンコール時のはっちゃけぶり(楽器を回したり/椅子の上に立って演奏したり)を見て・聴いたことをきっかけに、クラシックの(決定論的?)“不自由さ”と、それに伴う“自由さ”について考える。

というのも、アンコールのはっちゃけ演奏は(僕的には)ちょっといただけないなー、と思ったからで、オーケストラの(僕が求める)美しさや力強さは、軍隊のように統率された“組織”、そして“抑制”という、ある種の“不自由さ”に起因しているのかもしれない、と思ったから。

そして、それが甲野善紀さんの「運命は決まっていると同時に自由である」という言葉にやんわりと繋がり、その言葉を変化(誤読)させ、「決まっているから、自由である」としてみる。この場合、「自由であるから、決まっている」ということにはならない、つまり、不可逆であると考える。

相変わらず暴走してるなー(笑)。

で、そんなことを考えながら、昨夜、Sachiko M × Jim O’Rourke のフリー・インプロヴィゼーションなライブを聴いていたのでした。

“自由”であることのなんと厳しいことか(!)。

Comments

  1. 大天使心得 より:

    え~僕はあのオーケストラのドキュメンタリーを見てしまったので、もし音楽に出会わなければ街角で身体を売ったり麻薬を売ったりしなければならない子供達らしい、と言うことぐらいは一応分かってます。それが自分たちの中から出た指揮者の元、とおい日本まで来られてその喜びを伝えたいという事であれば、なんか許せるような気がするんですが。DVD焼きましょうか?

  2. ナカダ より:

    ドキュメント、内容はだいたい聞いていますが、
    もちろん見てみたいので、焼き、お願いします!
    喜び、というより国民性のように僕は解釈しました。
    南米のオーケストラ(黒人もいるオーケストラ)です。
    まさに、“新しいオーケストラ”ですね。
    誤解するような書き方をしてしまったようですが、
    僕は彼らをもちろん肯定しています(文句なく素晴らしいです!)。
    ただ、新しい価値についていけてないだけです。。

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