不自由さと自由さ
シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(・オブ・ベネズエラ)のアンコール時のはっちゃけぶり(楽器を回したり/椅子の上に立って演奏したり)を見て・聴いたことをきっかけに、クラシックの(決定論的?)“不自由さ”と、それに伴う“自由さ”について考える。
というのも、アンコールのはっちゃけ演奏は(僕的には)ちょっといただけないなー、と思ったからで、オーケストラの(僕が求める)美しさや力強さは、軍隊のように統率された“組織”、そして“抑制”という、ある種の“不自由さ”に起因しているのかもしれない、と思ったから。
そして、それが甲野善紀さんの「運命は決まっていると同時に自由である」という言葉にやんわりと繋がり、その言葉を変化(誤読)させ、「決まっているから、自由である」としてみる。この場合、「自由であるから、決まっている」ということにはならない、つまり、不可逆であると考える。
相変わらず暴走してるなー(笑)。
で、そんなことを考えながら、昨夜、Sachiko M × Jim O’Rourke のフリー・インプロヴィゼーションなライブを聴いていたのでした。
“自由”であることのなんと厳しいことか(!)。