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struc(tex)ture

芸術における「クオリティ(完成度)」について、結構長いスパンで考え続けている。越後妻有アートトリエンナーレで感じたクオリティの低さ、あるいは格差は、僕にある確信めいたものをもたらした。(このトリエンナーレについては、REAL TOKYO にて小崎哲哉さんが触れられていて、これにはすごく同感。)

学生の頃には、「クオリティよりもコンセプト」もなんてほざいていたけれど、そういう考え方は、科学的細分化のもたらした弊害であって、「クオリティ」も「コンセプト」の具現の重要な要素であることに気付いていなかったのだ。(例えば、池田亮司が指摘しているように、ミースから完成度の高さを除いたらどうなるか、または安藤忠雄からクオリティを奪ったらどうなるかを考えて欲しい。)

「どちらか」という考えは捨て、もっと「包括的」に考えるべきなのだ。なんて。