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Archive: Diary

徒然

佐々木敦さんのブログに書いてあった、斎藤環×茂木健一郎の往復書簡「脳は心を記述できるのか」は、たしかにおもしろい(といっても半分も理解できていないと思われ)。「共約不可能性」という便利(?)な言葉を知る。茂木さんの返信が待たれる。

最近会ってないなーと思い、久しぶりに友人のサイトを見る。「第一セット第七ゲーム」を初めて読み・笑い、その秀逸さに、やはり彼には才能があると思うのだけれど。

ほぼ日の野球とガンダムもいい感じ。「ダイヤ乱れてる! 何やってんの!」で爆笑。

珍しくヒップホップを聴きながら。「Bring The Noise」のオリジナルバージョンを初めて聴く。

今日は掃除。明日は力仕事。

アワーミュージック

ジャン=リュック・ピカードじゃなくて(笑)、ジャン=リュック・ゴダール、デジタル・ゴダールの「ゴダール&ミュジーが作り上げた最強のデジタル・サウンド爆音上映!」というふれこみの『アワーミュージック(Notre Musique)』を見に、吉祥寺のバウスシアターに(自転車で)行ってきたのは昨夜のこと。(映画は8/3の金曜日まで)

ゴダールは、ほとんど見たことがなくて、ただ「爆音」、「そして音楽そのものがテーマともなった」、「5.1チャンネル・サラウンド」というのに惹かれて見に行く。最初は「んーむ」という感じだったけれど、結果的には、なかなか楽しめたんじゃないでしょうか。

僕の知識不足と、映画の抽象性(?)ゆえに、内容はほとんど分からなかったけれど(というか、一回見ただけで分かるものではないよーな、台詞ひとつとっても、本を読むかのように、自分のペースで咀嚼しながらじゃないと理解できないよーな)、それでも何かが僕のなかに残った。

音響的にも、音楽と環境音(?)の切り返し的な効果が面白かったし、なので、DVDが出たら買うかもしれない。
そして、他のゴダール作品も見てみることにしよう。

世界の歴史、時事についても、もう少し知らないと。

Adriana Calcanhotto – Moreno – Domenico – Kassin

昨日、暑くて何もやる気がせず(もちろん最低限の仕事はしてますよ)、ボーッとけだるい午後を送っていたら、うちの先生からメールが届く。「今夜、リキッド行きませんか?」と。節約のため、泣く泣くライブ行きを断念していた僕に、一筋の光明が!

というわけで、アドリアーナ・カルカニョット+モレーノ+ドメニコ+カシン(長い!)のライブを観に、いざリキッドルームへ!

結果から言うと(というか行かなかったことを考えるとゾッとするほど)、楽しく刺激的なライブだった。知的にアート、クールさのなかの情熱、そしてユーモア。緊張感が漂いながら、何かリラックスした、そんな(どんな?)ライブ。

僕は、基本的に「踊る」ためや「歌う」ために音楽は聴かないし、あまり求めていない(といっても少しは踊ったり歌ったりしますよ)。音と音や、音のレイヤー間での関係性、リズムの構造(というようなもの)に感じる構成美や偶有性、そして「音」そのものに興味があるように思う。もしくは、圧倒的なもの。身動きができないぐらいに圧倒的に酔いしれるもの。

今回のライブは、前者的な興味が満足させられたわけで、次は、後者、例えば、カエターノの歌声が聴きたいなーーと、強く思うのだった。(カエターノの場合は両者の性質を持ち合わせているかも)
それにしても、モレーノとドメニコの2人でパンディーロ→2人でMPCの流れには、見た目のユーモアさとは別に、なんだかもの凄いものを見た・聴いたような気がした。

瑣末主義

美術館、それもきれいな建物に、このマットはないでしょう。と思うのは、僕のような瑣末主義者(笑)くらいなんだろうか。(写真:横須賀美術館のトイレ入口)

トイレ案内の張り紙(他の張り紙も含む)にしても、ちゃんとデザインされていない。もしかして、何かのっぴきならない理由があるのかもしれないし、偶然この日だけこういうことになっていたのかもしれないけれど、僕なんかは、単にコンセンサスがとれてないんだろうなーと思ってしまう。

そして、例えばこの場合、建物にお金をかけて立派なものを作っておきながら、こういう意識の低さを垣間見ると、「もったいない」というか、それを通り越して「怒り」に近い感情が芽生える。

僕がいいなーと思った美術館とか、それに類するような施設(直島とかYCAMとか)は、上のようなことはなかったように思う。少なくとも僕の目には入らなかった。そこには、コンセプトを共有し、共感しているスタッフがいた(ような気がする)。

これは、プロダクトやデザインにも言えることで、せっかく素敵なデザインなのに、ロゴマークがどーんと無遠慮にあったり(そもそもそのロゴ自体がひどかったり)、材質が安っぽかったり。なんというか「イケメンに鼻毛」的残念感なんだなー。

大事なのは、コンセプトの共有と共感。自戒を込めて。

あと、大局を見るというのは、おぼろげに全体を見通すことではなくて、全部に神経をとがらせて把握することなんじゃないか。もしくは、そういうシステムを構築することかもしれない。

というのが、昨日考えたこと。