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We got a Timeboy

ナーナ、ナーナー。先々日、とあるデザイン事務所の引っ越しのお手伝いをしたのだけれど、写真は、そのときの戦利品の一部。

タイムレコーダー、タイムボーイ7 GR なんて明らかにいらないけれど(笑)、そのいらない感じに(?)惹かれてしまうのだなー。

うん。

ネオテニー

帰省の高速バスのなかで、森博嗣の「四季シリーズ」を読んだのだけれど、最後の『四季 冬』のなかで真賀田四季博士が言っていたことが、ずっと気になっている。

要約すると(おそらく)ネオテニーに関することだと思っていて、例えば、「メモリィが大きい、処理能力が高い、つまり賢いものほど、長い期間、子供である必要があるのです」とか、「頭脳が明晰であることは、大人の証だという錯覚があったためです。しかし、それはまったく正反対でした」とか、「子供には、遊びも仕事も区別がありません」とか、「子供の方がずっと難しい。大人ほど単純です」とか。

まず、何を思ったのかというと、「そうか、僕はまだ子供だったのか!」ということ(笑)。次に、否定。なぜなら僕は「メモリィが小さい、処理能力は低い」から。

う〜ん。

(utd)

奈良で撮った唯一の写真。(たくさんの)人といっしょだと、写真を撮るのを忘れてしまうのはなぜだろう(普通は逆?)。

抜粋初め

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

今日は仕事始め。そして、ブログ初め。といっても、書きたいことは相変わらず曖昧模糊としてしまっているので、得意(?)の抜粋にて失礼します(笑)。

(前略)「要するに、すべての情報は、その発信母体の呪縛から逃れられない。必ず信号を発する頭脳の思考プロセスによって制限されている。それは簡単に表現すれば、言葉を話すのに時間がかかり、それを認識するのにも時間がかかるからだ、といっても良い。たとえば、現象は並列でも、言葉は直列に並ぶ。その並び替えのプロセスに、発信母体の意図が介在するだろう。そこに制限された境界条件が必ず入り込む。もちろん、言葉と現象の多元対応が、曖昧さを作り、シンボルの選択には、受信側の意思を侵入することになるけれど、これが、発信側の張った網を超越することは稀だ。つまり、この特性を利用することによって、継承による推論が生まれたともいえる」(後略)

森博嗣,著『今はもうない』より、犀川先生による“継承による推論”という思考パターンの解説なのだけれど、僕は太字になっているところに反応しただけで(笑)、これは、甲野善紀さんがさかんに仰っている言説と同じだなーと。

それだけ。