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不自由さと自由さ

シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(・オブ・ベネズエラ)のアンコール時のはっちゃけぶり(楽器を回したり/椅子の上に立って演奏したり)を見て・聴いたことをきっかけに、クラシックの(決定論的?)“不自由さ”と、それに伴う“自由さ”について考える。

というのも、アンコールのはっちゃけ演奏は(僕的には)ちょっといただけないなー、と思ったからで、オーケストラの(僕が求める)美しさや力強さは、軍隊のように統率された“組織”、そして“抑制”という、ある種の“不自由さ”に起因しているのかもしれない、と思ったから。

そして、それが甲野善紀さんの「運命は決まっていると同時に自由である」という言葉にやんわりと繋がり、その言葉を変化(誤読)させ、「決まっているから、自由である」としてみる。この場合、「自由であるから、決まっている」ということにはならない、つまり、不可逆であると考える。

相変わらず暴走してるなー(笑)。

で、そんなことを考えながら、昨夜、Sachiko M × Jim O’Rourke のフリー・インプロヴィゼーションなライブを聴いていたのでした。

“自由”であることのなんと厳しいことか(!)。

オブ・ベネズエラ

グスターボ・ドゥダメル指揮、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ、観てきました。東京芸術劇場。池袋。

いやー、楽しかった。エキサイティング、ファンタスティック(!)。ここ一番(トゥッティ)でのパワー、ドライブ感はもう圧倒的(!)。

これに、彼らが年を重ね、“深み”(とかテンションを保ちつつのある種の“丁寧”さ)が出て来たら最高だろうなー、とか思うけれど、そのときにはこの圧倒的な“パワー”が減衰しているのだろうなー(笑)。

それはそうとして、「クラシック音楽を演奏させることによって、貧しい子供たちを善良な市民に育成し、麻薬や犯罪から守り、社会の発展に寄与させることができるという(国家的)プロジェクト」、素晴らしいと思います。

「音楽は社会を変える力となる」、うん。

今日は、フリー・インプロヴィゼーション。

キューオン

AB誌のマルチフォーカスを読み、そういえばこの部屋にも“妙な響き”があるんだった(とようやく)思い出し、色々試してみたところ、スピーカー間の真ん中、試聴位置の真っ正面にキューオンくんを貼ることによって、“妙な響き”は治まった。

これはこれで、現代美術みたいでいいのかもしれないけれど(笑)、できれば、素敵にアンティークな(デコラな)額を飾りたいと思うのでした。

オーディオが迷走していると、もうひとつ調子がでない、気がする。

あ、水曜に急遽、久しぶりにオーケストラを聴きに行くことに。仕事中に愛聴している OTTAVA amoroso の林田さんが押している、グスターボ・ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネスエラ(長い!)、なんだけど、

ベネズエラの若者たちで構成されたこのオーケストラのもたらす衝撃は、あの「のだめカンタービレ」のR☆Sオーケストラに匹敵するものがあるはずです。

だそうです。本当は、アルゲリッチも出る木曜の公演の方に行きたかったけれど、木曜はジム・オルークなんだなー。