昨日は久しぶりに恵比寿。KAPITAL で勝負靴下(笑)を買い、limArt で本を漁る。
その後、limArt annex にて YUKI 2009 autumn/winter exhibition 、素敵な発色。つなぎっぽい服が良かったけれど、僕は男なので着られない、そんな感じに服を眺めつつ、Afterhours さんのドリップコーヒーとカステラをいただく。
このような展示会でおいしいコーヒーをいただけるというのは、色んな意味でとっても良いことだと思う。今後の Afterhours さんのご活躍を影ながら祈ってみる。
うん。
写真(上2つ):同居人
最近よく思い返す言葉があって、それは「観客にお芝居を見せる目的な何でしょう?」という問いに対する犀川先生の(2つあるうちの1つ目の)答えで、芸術性、つまり「演出して観客が喜んだり驚いたりする、その反応が目的」、要するに、
「他人の感情を一時的にでもコントロールすることは、ある意味で人間の欲望を刺激する」
ということなのだけれど、「コントロールする」なんていうと、なんだか悪っぽいイメージ(笑)が先行しがちに思っていたけれど、喜ばせたり、幸せな気持ちにさせることも、ある意味「コントロールしている」のだなと。それが「欲望を刺激する」のだなと。
そんな僕も、このエントリーを読んでもらって「なるほど〜」という感じに、他人の感情を「コントロール」したいのかもしれない。
コントロール。
私たちは感知したものをそのまま目にするのではない。感知したと思うものを見る。意識上に上るのは解釈であって、生のデータではない。意識されるはるか以前に、無意識のプロセスによって情報が処分され、その結果、私たちは一つのシュミレーション、一つの仮説、一つの解釈を目にする。しかも私たちに選択の自由はない。
トール・ノーレットランダーシュ,著『ユーザーイリュージョンー意識という幻想』より。意識に“上る”っていう表現より、“下る”っていう気分。
私たちの経験する事柄は、意識される前に意味を獲得している。
同上。「現実とは、一つのシュミレーション」。忘れがちだけれど。
ヒゲを剃る。フリーになってから伸ばし始めたから、約3年間のヒゲ。さらば。
というわけで(?)、ジュリアン・ジェインズ,著『神々の沈黙ー意識の誕生と文明の興亡』を読み終えたのだけれど、うん、アメージング(!)。久しぶりの知的興奮。
本の内容は、1年ほど前の内田樹さんのブログを読んでね(笑)。簡単に書くと、「人類に意識が生じたのは、わずか3000年くらい前だったんじゃないの」ということ。
というわけで、次は、トール・ノーレットランダーシュ,著『ユーザーイリュージョンー意識という幻想』を読み始める(その次はリベット?)。
“意識”っておもしろい。いったいなんなんだろう。
Safari 4、さっそくインストール。確かにちょっと速いし、色々と便利。いい感じです。それと、iPhone の値下げ(!)。ずっと迷っていた僕としては、うーん、どうしよう。
閑話休題。沖縄の聖地のひとつ、斎場御嶽(せーふぁうたき)に立ち寄ったのだけれど、なんというか、当然観光地化されているわけで、そうなると、僕の感度の低い感性には、“神聖さ”みたいなものを感じることがちょっと難しくなるわけです。
それと、帰りの機上で読了した、ジュリアン・ジェインズ,著『神々の沈黙ー意識の誕生と文明の興亡』的な興味の対象として見てしまっていたというのがあるかも。装置としての聖地、儀式。これについては、また今度書きます。
聖地といえば、神長官守矢史料館のすぐ近くにある祠(リンク先一番上の写真の奥)には、感度の低い僕にも充分に感じるものがあったなー。結界の中は空気が違うというか(プラシーボ的な差異なのか?)。
むん。