ということを、プラシーボ効果(や二重盲検法)的なことを考えていたときに、思い出す。ちょっと前のカーサに載っていた黒田泰蔵さんの言葉。機能美に対する彼のアンサー(?)。
「精神的な機能というものがあり得るのかどうか」は、「ある」に決まっているけれど、疑似科学が流布している現在では、かなり軽視されている(と感じるときが多い)。
そんなこんなで(?)、意識についてもう少し見識を広めようと、ジュリアン・ジェインズ,著『神々の沈黙ー意識の誕生と文明の興亡』を読み始める。
この本が、トンデモ(疑似科学)本だって噂もあるけれど(笑)。
帰省の高速バスのなかで、森博嗣の「四季シリーズ」を読んだのだけれど、最後の『四季 冬』のなかで真賀田四季博士が言っていたことが、ずっと気になっている。
要約すると(おそらく)ネオテニーに関することだと思っていて、例えば、「メモリィが大きい、処理能力が高い、つまり賢いものほど、長い期間、子供である必要があるのです」とか、「頭脳が明晰であることは、大人の証だという錯覚があったためです。しかし、それはまったく正反対でした」とか、「子供には、遊びも仕事も区別がありません」とか、「子供の方がずっと難しい。大人ほど単純です」とか。
まず、何を思ったのかというと、「そうか、僕はまだ子供だったのか!」ということ(笑)。次に、否定。なぜなら僕は「メモリィが小さい、処理能力は低い」から。
う〜ん。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
今日は仕事始め。そして、ブログ初め。といっても、書きたいことは相変わらず曖昧模糊としてしまっているので、得意(?)の抜粋にて失礼します(笑)。
(前略)「要するに、すべての情報は、その発信母体の呪縛から逃れられない。必ず信号を発する頭脳の思考プロセスによって制限されている。それは簡単に表現すれば、言葉を話すのに時間がかかり、それを認識するのにも時間がかかるからだ、といっても良い。たとえば、現象は並列でも、言葉は直列に並ぶ。その並び替えのプロセスに、発信母体の意図が介在するだろう。そこに制限された境界条件が必ず入り込む。もちろん、言葉と現象の多元対応が、曖昧さを作り、シンボルの選択には、受信側の意思を侵入することになるけれど、これが、発信側の張った網を超越することは稀だ。つまり、この特性を利用することによって、継承による推論が生まれたともいえる」(後略)
森博嗣,著『今はもうない』より、犀川先生による“継承による推論”という思考パターンの解説なのだけれど、僕は太字になっているところに反応しただけで(笑)、これは、甲野善紀さんがさかんに仰っている言説と同じだなーと。
それだけ。
昨日は、「ネオ・トロピカア|ブラジルの創造力」展へ。東京都現代美術館。ネオ(ネオ?)・トロピカリアな音楽(の一部)を愛聴している僕としては、見ておいても損はないかと。
で、想像していたよりは楽しめたけれど、なんというかブラジルの現代アートって、僕のアートの定義(というより好み)より、幾分“軽め”であって、夏に豊田市美術館で見たブラジル展もそうだったけれど、“魂的感動”は得られないのだなー。
ゴーンとかドーンとかいう感動が(笑)。
それでも、写真のように「ネオ・トロピカリア|ブラジルの創造力」を買ってきたのは、展覧会が良かったからというより、この本が良かったからということで、テキストがおもしろそうだったし、デザインだって良い(と思っていたら、ADが近藤一弥さんでした)。
というわけで、今から読む。
最近の仕事のBGMは、「ロックもジャズもR&Bもヒップホップも、聴いてきた。だけど…このラジオステーションから流れるクラシックは、いままで聴いたどの音楽よりも、長く付き合えそうな気がする」らしい(笑)、OTTAVA。
下に書いたカウエルの曲は、OTTAVA con brio(amoroso でした!) で知ったのでした。ラヴェルの弦楽四重奏曲(第4楽章)もかっこよかったなー。僕の持っているラサール・カルテットの演奏よりもテンポが速く、エモーショナルな感じが。
そんなわけで、クラシック熱も上昇中。
ここで知った、浜田武士さんの作品(仕事)いいなー。デザインとアート。この路線。
仕事部屋に掲げていた「働かざるもの食うべからず」(笑)を、「一日作(いちじつな)さざれば、一日食(くら)わず」に変更せねば。これは、今ハマっている森博嗣から。