先週、寝ながら聞いたレクチャー、鈴木芳雄(ブルータス副編集長)『何ものかを降臨させるために』。
そんなにすごくおもしろかったわけでもないのだけれど(笑)、お話にでてきたブルータスを読み返してみたり、古本屋で目に止まったので買ってみたりして、この内容が数百円で買えるなんて素晴らしいなと思ったり。「丁寧さ」と「軽さ」ですかね。
来年2月だったかな、現代アートの入門的特集があるらしいです。楽しみであります。
お、『ヴォイス・オブ・ヘドウィグ』なんてやっていたのか。関係ないけど(笑)。
そういえば、池上高志,著『動きが生命をつくる』を読み終わりまして、なんだかモヤモヤした気分になりまして、ならば、先に読了されていたタマキさんに「このモヤッと感を払拭していただこう」と、ユーロビールを飲みながら、お会い・お話ししたのは金曜のこと。
結果、払拭されるどころか、モヤッと感が2倍になる(笑)。分かったことよりも、分からないこと・考え続けなければいけない(考え続けたい)ことが増える。
とはいえ、とても刺激的な本でした。僕の場合、第三項音楽の講義を何回か聴講したこともあり、第8章の「アート」は、とってもスリリング。ストーリーテリングからテクスチャーへとか、ジョン・ケージの手法を「生命=自律性」で説明しちゃうとか。
リベットの実験の話からの展開も興味深い。「行為をやめる」場合にこそ自由意志が介在するとか、「今」には有限幅があるとか。
調子に乗って、金曜の武蔵美での講義に行ってしまおうと思っていたけれど、仕事とのかねあいですなー。。
村上龍,著『半島を出よ』後、流れ(?)で『五分後の世界』、続けて『ヒュウガ・ウィルス』を再読。
何で人間はそんなに弱いんだ、とポール・フランコが聞いた。
「弱くて脆い部品が精密に作動するから生物は進化した、われわれの身体を構成する分子は危うくて壊れやすいつながり方でつながっている、だから化学反応が可能で全体として信じられないような生体のシステムが生まれた、強い結合で結ばれれば鉱物になってしまう、鉱物は何億年経ってもほとんど変化がない、人間は柔らかい生きものだ、その柔らかさ、脆さ、危うさが人間を人間たらしめている」
『ヒュウガ・ウィルス』より。なるほど。僕的タイムリー。
ついでに書くと、デジタル化になってからの横尾忠則氏のあれ(装丁)ってどうなんだろう。オペレーターのセンスが影響しているのだろうか。
小説ってサクサク読めて楽しいなーと思い、勢い余って(?)、京極夏彦,著『ルー・ガルー』も読む。なかなかおもしろいじゃないか。登場人物・設定が変わっても、京極は京極。
中村昇,著『ホワイトヘッドの哲学』も読了。いきなり『過程と実在』を読まなくてよかった、というか読めなかったでしょう(笑)。非常に理解し難い宗教科学哲学(?)。読みながら甲野善紀さんが言っていることと何かが繋がっている気がする(「具体的なものをとりちがえる間違い 」とか)。時間、空間、存在について思いを馳せる。
今は、池上高志,著『動きが生命をつくる』。もちろん理解不能なところもあるけれど(笑)、非常に刺激的。
以上。
なかにし礼,著『音楽への恋文』を読む。氏のクラシック音楽への愛が、同じ音楽(違う音楽)好きの僕としては、「分かる、分かりますよ」という感じで(程度は違うでしょうけど)。
コンサートについて、
なぜなら、ほとんどの演奏会がつまらないからである。つまらないなら行かなければいいというのが道理だが、二十回に一回、三十回に一回くらいの割で、相当にいい演奏会に接触できるから困るのである。そして、百回に一回くらいの極めて少ない確率で、とんでもない事件のような感動をうけるときさえあるからなお困るのである。
と書かれているのには、大いに勇気づけられる(?)。僕は、クラシックのコンサートには合わせて10回も行っていないけれど、すごく感動したのは1回(ブーレーズ指揮/グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラ)だけで、3万円(!)もしたコンサート(バレンボイム指揮/シカゴ交響楽団)で失敗してからは、バカらしくて(ほとんど)行かなくなってしまっていたのだなー。でも、こんなもんなのね。
音楽は空気のふるえである。音楽を聴くということは、楽器がうなってふるわせた空気の中に身を置くということにほかならない。
僕が、オーディオで大きな音を出したいのは、この「ふるえ」を体感したいからなんだろうなー。
クラシック音楽を聴くことによって、ぼくは自分の精神の老化を知り、不健康を知り、また健康であることを知る。クラシック音楽を聴くことによって精神が生き生きとよみがえる。今後のチェックポイントを知り、志を正しく持ち続けようと思うのだ。
僕の場合、クラシック音楽だけじゃない(というよりそれ以外の方が多い)けれど、僕もそう思いますです(!)。
と書きつつ、耳の調子がよろしくない今日この頃。。
午後より復調。仕事をバリバリ、音楽は大音量、コーヒーもうまい(今日から Afterhours 謹製)。
読書メモ。
売れている亀山郁夫さん訳の『カラマーゾフの兄弟』を読みたいなーと思いつつ、(それを読むのを前に)上の亀山郁夫,著『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』を見つけてしまい、「コーリャはどうなるんだ?!」という長年の疑問(心配事)を少しでも晴らすべく購入したのは、先週のこと。内容はネタバレになるので書きませんが(笑)、
「この思想の主」、すなわちニコライ・フョードロフは、死を人間の根元的な悪とみなし、その克服にキリスト教の奥義はあると考えた。しかし、同時に、死を避けがたい宿命とみることなく、ほかの哲学者とは異なるユニークなアプローチを示してみせた。「死とは、…それなしでは人間が人間でなくなるような、つまり人間が本来あるべき姿でなくなるような特質ではない」とし、死を徹底的な研究の対象とすべきものとしたばかりでなく、自然界の諸力をコントロールすることで死を克服し、ついには「死んだ祖父たちを甦らせる」ことこそ、キリスト教の復活の意味であり、その延長線上に、ゴルゴダで十字架に架けられたキリストの、真の肉体的復活は可能になると考えたのである。
という思想があったということに、ちびった。フョードロフさんは、「現代にいうクローンの創造」を考えていたそうだ。桑原。。
次に、砂川しげひさ,著『クラシックだドン!』を読み、大笑いし、今は、中村昇,著『ホワイトヘッドの哲学』。
以上。