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Archive: Book

帰省

帰省中(といっても明日朝帰るのだけれど)。オリンピックを見たり、仕事(涙)したり。

往路の高速バス(昼間の高速バスなら大丈夫で夜行バスが苦手なのです)では、公開対談にも行った「」を読み、復路ではコンラッドの「闇の奥」予定。

高速バスでの読書は楽しみ。目が疲れると流れる景色を見ることができるし。

an anthology of noise & electronic music

今日は久しぶりの休日。心配していた案件も無事解決。後は、心ゆくまで音楽聴き、読書し、元気になった猫と戯れるのみ。

写真、『an anthology of noise & electronic music』の #1 は、最近のお気に入り。2年半くらい前に読んだ、佐々木敦,著『テクノ/ロジカル/音楽論』の冒頭に紹介してあったのが、このCDで、当時探したときには(やや)入手困難だったため買うことができず、忘れていたのだけれど、先月、ディスクユニオンで見つけ、2枚組で2,300円だったこともあり、買ってみたのでした。

ジャケットを見て「おおっ」と思った人、そうです、コルビュジエ(とクセナキス)設計のフィリップス・パビリオンです。そして、そうです、このCD(2枚目)にはパビリオン内で流されるために作曲された、ヴァレーズとクセナキスの曲が入ってます(もちろん)。

聴いてみると、ヴァレーズはそうでもなかったけれど(笑)、クセナキスの「コンクレートPH」は素晴らしく美しい(!)。約2分の短い曲だけれど、細かい粒子が魚の群れのように“動き”を形成しながら、、、(うーん、サラウンドで聴きたい)。

この2曲(1曲?)だけでも僕的に買う価値ありだけれど、他にも、1921年から2001年までの「ノイズ・ミュージックと電子音楽」からセレクトされた、例えば、ルッソロ、シェーファー、ナム・ジュン・パイク、ジョン・ケージ、ソニック・ユース(!)、大友良英、DJスプーキー、池田亮司などなどが収録され、さらに、単純な年代順ではない曲順もクリエイティブで素敵( #2 も今度買ってみよう)。

うん。

音楽美学思想

事典 世界音楽の本』、「3.3.2.2 聴衆の変容」より抜粋。

音楽は「鳴り響きつつ運動する形式」にほかならず、それを捉えることによってのみ精神的な価値あるものになるとし、それを感情や快と結びつけたりする聴き方を邪道として排除しようとしたハンスリックの音楽美学思想はその代表である。

音楽美学思想、という思想があったのか。僕がある種の音楽を聴くときは、このモードかもしらん。

かつてアドルノは『音楽社会序説』の中で聴衆をいくつかに分類したが、その際、楽曲全体を把握し、構造的に聴取できる理想的な聴衆と対照的な位置に、音楽を娯楽としてしか聴かず、細切れの表層的な刺激を受け取る散漫な聴取に終始するタイプの聴衆を挙げ、批判した。

うーん、でも後者的でもあるなー(笑)。

しかしながら、“今”を考えると、この「純粋鑑賞」というような聴衆は消えつつあるように感じる。音楽が副次的であった長い長い前の時代・文化の在り方に戻りつつあるというか、もともとそういうものだったというか、幻想だった、というか。

鼻歌=iPod、労働歌=BGM、祭り=ライブ(やクラブ)、というようなのが本来的な音楽の在り方なんだよなー、というか。

サンセリフが最終段階というわけではない

尊敬すべきカール・ゲルストナーのこの言葉に、ヘルムート・シュミット氏同様に衝撃を受け、アイデアを買ってしまう。

「ゴーン」というか、「ドーン」ていう感じの衝撃。

よく「60年代のロックが最高」などと仰っている方々に疑問を感じていた僕だけれど、フォントに対しては前者だったわけだ。
あることですごく疲弊したため、今日はこれで営業終了(笑)。

社会

誰も知らない 世界と日本のまちがい』を読みつつ、『事典 世界音楽の本』の第3章「制度」を読み始めると、以前読んだ、アドリアン・フォーティ,著『欲望のオブジェ』を思い出さずにはいられない。

というのは、よくメインで語られるもの(人や出来事)の裏側で何が起きていたか、それを俯瞰して見たときに社会や経済がどのように関係していたのか、という点で類似しているからで、『欲望のオブジェ』を読んだ時点では、今までの視点(偉人を中心とした見方)との相違からか(頭では分かるけれど)何か馴染めない感じが残ったのだけれど、今、包括的な視点での本に触れまくっていると(笑)、グラッと理解できつつある。

例えば、

18世紀後半から19世紀にかけての、一般に「近代」と呼ばれる時代は、音楽をはじめとする「芸術」が教会での典礼や宮廷での社交といった、宗教的・政治的なくびきから解き放たれ、それ自体としての価値を認められる自律的存在になった時代としてイメージされてきた。だが、それはこの時代の一面にすぎない。というより、「芸術」の存在を保証するような施設や身分そのものが、この時代に作られた政治的・経済的システムの一端をなす社会的な「制度」であるとみるべきなのであり、近代的な芸術の自律性という考え方が確立するのが近代的な国民国家や資本主義のシステムが確率してくるのとほぼ同時期であるのは決して偶然ではない。

と『事典 世界音楽の本』にあり、うーん、なるほどなーと思っていると、『誰も知らない 世界と日本のまちがい』に、その背景である「国民国家や資本主義のシステム」について語られていたりして、相乗的理解を得られるわけです。

ということを、全仏オープンを見ながら書く。ヤンコビッチ対イワノビッチ、いったいどうなるんだろう(!)。