尹雄大(ユン・ウンデ),著『FLOW─韓氏意拳の哲学』について書きたいのだけれど、うまく書けないでいる。頭がコンガラガル。
わからないことに出会って、それをわかっていくには、何かにたとえたり、なれ親しんだ概念に引きつけて理解していくのが定石だが、韓氏意拳の場合は、既に知っている事柄に置き換えたとたん、それが意味しているものとまったく違うものになってしまう。俯瞰で眺めることもマッピングすることもできず、森が深いことはわかっても、まるで道が見当たらない感じに似ている。
と前書きにあるのだけれど、まさにそんな感じで、さらに言えば(引用すれば)、
哲学と聞けば体系化され、整然として、順序さえ間違わなければ段階を追って理解できるイメージがあるが、韓氏意拳の学理は矛盾した表現を多用し、言葉の前後だけを見れば辻褄が合わなかったりする。また、これまで経験したことのない「未知」を把握することを要求するので、単純に字面を追うだけでは理解できない。
というわけで、「つまりは何かを発見するというよりは、すでに備えている認識のあり方を問うことに」なっているわけです。
韓氏意拳、学んでみたい。
アリメさんにお借りしていた、アドリアン・フォーティ,著『欲望のオブジェ デザインと社会 1750-1980』を読み終えた。
もの、いいかえれば製造品のデザインは、ほんらい、社会的・経済的なさまざまな要因のからみあいのなかから生まれてくるものだ。にもかかわらず、ペヴスナーをはじめとする従来のこの分野の歴史書は、あたかもそれがアートと同じような純粋な創造的営為であるかのように扱い、したがってデザイナー個人に過大なスポットをあててきた、と著者、アドリアン・フォーティはいうのである。
とすれば、新たに書かれるべきデザイン史は、いきおい社会史の相貌をおびざるをえない。(後略)
上は、「訳者あとがき」からの抜粋で、簡単にいうとこんな内容の本。(アートが純粋な創造的営為であるかは疑問に思うけれど)
たんたんと経済・社会史的に、プロダクトデザインの変遷を追っていくのだけれど、これはこれで、こんなに理路整然と説明できることなのだろうかと、僕なんかは思ってしまう。確かに、デザイナーにスポットをあてすぎるのは、問題だけれど。
と懐疑的になってしまっているのは、お隣の本、尹雄大(ユン・ウンデ),著『FLOW─韓氏意拳の哲学』を読んでしまったからで、続く。
そうか、青葉益輝さんも使っていらしたのか。「卓球台を多目的テーブルとして使うというアイデアは、このオフィスの内装をしたインテリア・デザイナー、倉俣史郎さんと話し合っているときに生まれた」そうで、写真奥のグリーンのロールカーテンも卓球台を中心にしたコーディネイトだそう。と言っても、この写真はブルータスの2号(1980年8月)から撮ったものだから、今はどうかは知りませんが。
以前のエントリーで、松本弦人さんが卓球台を仕事机として使っていると書いたけれど、案外、こんなところに根があるのかもしれない。
それにしても、オクタヴィアンさんに頂いたブルータス(創刊号~)はすごい。情報の高密度&パワーにおののきっぱなし。
タイトルは、パイフェンイー(百分一)ですが、「武学探究 感之二」です。つまり、『武学探究 (巻之二)』の感想2です。
では、恒例の抜粋(笑)。
(前略)僕の頭には常に、韓老師の「百分一(パイフェンイー/1パーセント)という言葉があるのです。韓老師は僕にこう言われたのです。「あなたの持っているすべてのものは、そのそれぞれが、あなたの能力を構成する要素のうちの1パーセントでしかない。感覚も思考も力も構造も、あなたのすべての能力のうちの1パーセントにすぎない。それらすべてを合わせて、あなたという人間がここに存在するのだ」。僕はこの言葉を聞いたことで、「立体を立体のまま認識する」ということがどういうことか、理解できるようになったのです。(後略)
何かうまく行かないときって、大抵の場合、何かに囚われていることが多くて、それが一般常識だったり、固定概念だったりするのだけれど、僕の場合、最近では上の文の真似をして、「それも、百分一(パイフェンイー)だ」と思うようにしている。部分ではなく、全体を全体のまま認識できれば、物事はもっとうまく行くのじゃなかろうか。
フォースもそうだけど、何かに執着することは、暗黒面に繋がるのだ。
次は、「結果から結果を追う誤り」について。というか全然感想になっていないじゃないか。
流行通信 May 2000 vol.442 より。ルイ・ヴィトンが握る春のモード「MATCH POINT」と題された8ページの内の2ぺージ。モデル・田辺あゆみ、撮影・富永よしえ。(田辺さんのオープン・ハンド・サービス、美しいです。しかも、ボールがヴィトン印!)
なぜ今になって6年前の雑誌なのかというと、昨日、吉祥寺に行った際に、ブックステーションという古本屋に初めて入ったのだけれど、この店は、品揃えといい、所蔵数といい、広さといい、とにかく素晴らしくて、で、そこでウロウロと散策していて見つけたもの。
某デザイン事務所勤務時代に、この流行通信を見て、ものすごく衝撃を受けたのをずっと憶えていて、なぜって、僕はその当時、なんとか卓球のイメージをかっこよいものにしようと、広告など(のプレゼン)に何かと卓球を持ち込もうとしていたから。ファッションフォトと卓球の出会い。しかもあからさまじゃないのが素敵。
昨日の雑誌パラパラ記憶と、古本屋の膨大な雑誌を目の前にして、昔の記憶が蘇り、妙に懐かしくなってしまい、買ったのでした。