昨日は、Moreno-Domenico-Kassin+2 のライブを見に、代官山UNITへ行く。道に迷う。ライブは、アルバムの印象のまま拡大増強した感じで、ゆるい感じも、悪びれない感じも、あくまで楽しく的な感じも、すごくナチュラルで、よい意味でアマチュア的で、うん、楽しかった。
前半は、カシンがヴォーカルを取る「Kassin+2」形態で、後半から、ドメニコがヴォーカルの「Domenico+2」、そして、モレーノがヴォーカルの「Moreno+2」と続き、またカシンに戻るといった(簡単に言うとこんな)感じでライブが進む。このバンドならではの、1バンドで3回おいしい感じは、やはり強力。さらに、後半の数曲で、ゲストの高野寛が入り、アンコールでは Saigenji が入り、自曲を2曲歌ったりの蛇足付き。
蛇足ではない(笑)、+2の2人、前回のカエターノの来日メンバーでもあった、パーカッションのステファンと、ギターのペドロ・サーは相変わらず素晴らしくて、そして、なんだかとても楽しそうだった。ペドロ・サーの「Futurismo」のリフがすごくかわいかった。
さらに書くと、オタク系小太り(←失礼)のカシンが、ギターを「ギャーン」って鳴らしている姿が、なんだかとても不釣り合いで、かわいかったり、モレーノの歌声にカエターノの面影を感じ、やはり親子なんだなーと思ったり、ゲストの「タカノヒロシサン」が出てきたとき、会場の「誰?」ってざわめきがかわいそうだったり。。
そういえば、今日のスペシャルゲストって誰なのだろうか。
数ヶ月前に買った、武満徹,著『音、沈黙と測りあえるほどに』を読み終えた。というわけで、今、『November Steps』を聴いている。本の中に、「洋楽の音は水平に歩行する。だが、尺八の音は垂直に樹のように起る。」という言葉があったけれど、なるほど、まさにそう。
この本は、ちょっとキザ(?)な表現について行けない感じもあって、読むのに時間がかかってしまったけれど、結果的にはとても面白く、特に、「十一月の階梯 = November Steps に関するノオト」が実に興味深い。
現代作品の多くは潔癖に「過去」を避けようとしているようにみえるのだが、私は「過去」を怖れることはない。新しさと古さの両方が私には必要なのである。だが、「未知」は、過去にも未来にもなく、実は、正確な現在のなかにしかないのだろう。
他の聴いていない武満作品が気になる今日この頃。そういえば、「どですかでん」の音楽も武満さんだったなー。
昨日は、ベック曰くの「強烈な責任放棄願望とプロ級の怠慢癖」を振り払うことができずに一日無下に過ごしたのだけれど、今日はうってかわって元気。先日の音と戯れる会で入手した下記のレコードを聴きながら、洗濯、仕事、仕事。
今のところ god-zi-lla さんが「これ好きだと思うよ」と教えてくださった spring / anthony williams がお気に入り。30度を超える部屋の中、爆音で聴くフリージャズはたまらん。
戯れる会は、オーディオ的なことはもちろん、ソフト面でもこのように得るところが大きい。自分があまり聴かないジャンルにも、素晴らしいミュージシャンはたくさんいるのだ。
ビョークのドキュメンタリーDVD『インサイド』を見た。この間、同居人が買ったもので、そのとき一緒に見たのだけれど、もう一度、じっくりと見たかったのだ。
ジャケットもこの通り素敵。(かわいいぞ、この書体。)
高校生の頃から、「ビョークはすごい」と思いつつ、実は最近まで彼女のアルバムを買ったことはなくて(弟に買わせたことはあったけど・笑)、その理由も「サラウンド録音がすごい」というやや(?)不純な動機だった。でも、聴き込んでいくうちに、というより聴いた瞬間に、ようやく真のビョークのすごさを再認識→小悟し、さらに上のようなDVDも見たりなんかして、「ああ、同時代にこんな天才が生きていたとは!」と驚かざるを得なかったわけです。
『ヴェスパタイン』の帯に、「ポップと前衛の架け橋」とあるけれど、まさにそう。ポップスにこだわるところもニクい。
というわけで、大阪の御田さんのページ(’06.5.21)に紹介してあった『サラウンド』をすごく楽しみにしているのだ。
オリジナル・アルバム7枚(サントラ含む)の、デュアル・ディスク仕様&ボックス・セット。DVDサイドにはオリジナル・アルバムの5.1ミックスを収録、またアルバム7枚のうち5枚はビデオ・クリップを収録!
買うしかないでしょ。買うならタワレコより3,300円も安いアマゾンでしょ。
某掲示板に「あらためてサラウンドを考える」というスレッドがあって、これを読みながら「んーむ」と考える。僕も、経験上、音楽再生の上では、5.1chのセンタースピーカーとサブウーファーはいらなくて、4chで充分(というより4chの方が)豊かな再生ができると確信している。
先の渋谷慶一郎さんのライブの前(月曜の講義のとき)に、「なぜ8chなのか、民生用の5.1ch、または4chでは表現できないのか」と質問したところ、まず、「5.1chっていうのは、要するに4chに毛が生えた程度のものだから」と答えられ(おお、渋谷さんは分かってるなと僕は心の中で思う)、「4chと8chでは、例えば、全体的に音の輪が小さくなったり大きくなったりというのを再生すると、圧倒的に8chの方が実在感があるんだ」と仰っていたので、ちゃんと聴いて判断してるんだと、これなら期待できる! と思ったのであった。
が、実際聴いてみると(試聴位置に問題はあったが)、「スピーカーから音が鳴っている」と思ってしまったのだ。
それから数日間、うようよと考えていたところ、某掲示板の「幽玄的に出来るファントム定位」という言葉に出会い、ようやく僕の脳の関連シナプス群にラベルが貼れたのだ。
オーディオ・マニア(以下オーマニ)じゃない人には何のことか分からないかもしれないけど、オーマニの間では常識的な言葉の「音像の定位」というのがあって、それは例えば2chなら、左右のスピーカーの真ん中からあたかも音が聞こえるというもので、それがヴォーカルなら「ヴォーカルの口の動きが見えるようだ」ということ。これには、これでしか味わえない驚きと快感(クオリア)があると思う。
つまり、例えば8個スピーカーがあって、それらが別々の音源を発していて、音が回ったり転んだりするのも楽しいけど、それを4個のスピーカーで表現できれば、スピーカーのない空間から音が発せられれば、もっと楽しいし、家庭でもそれを楽しめることになるのではないか。岡倉天心のいう「想像力の喚起」こそが芸術の楽しみなら、尚のことね。
セッティングを詰めれば僕は可能だと思っている。使うなら無指向性のスピーカー4本。うーん、やってみたい。
関係ない(こともない)けど、佐々木敦さんの『(H)EAR』、内容も装丁も好みだし、買おうかな。