ここ数日の間、頭痛がひどくて大変だったのだけれど、ようやく復調。昨日、久しぶりに、大井町にあるワインバー LA CANTINETTA にて、おいしいワインをたくさん飲んだのがよかったのかもしれない。たまには贅沢せねば。
バーでの会話で、「のだめ → ベートーヴェン交響曲第7番 → 5・6・7番は完璧 → いや7番は嫌い…」のようなクラシックの交響曲系会話でしばし盛り上がったのだけれど、僕が「シューマンの交響曲も好きですね」というと、隣の席の方が「僕は3番が好きだな。確か『ライン』だったっけ?」と返されるが、「好き」と言っておきながら速答できない僕。。
そうして、「好き」という記憶はあるけれど、どんな曲だったかも思い出せないくらい忘れてしまっていることに気が付いたのでした。そういえば、今年は近年希にみる「クラシックを聴かない」年だった。
ということで、今から、シューマンの交響曲を聴こうとしているところ。(確かに、第3番は『ライン』でした。)
あと、クラシックで「誰それの何番」という言い方が分かりにくいと、よく聞くけれど、例えば、「僕は、ベックのサード(3枚目)が好きだな」というのと大差はないと思う。でも、その時代に生きていて、発表されたのを順番に聴いてきたわけじゃないから、やっぱり分かりにくいか。
そうか、労働が機械化されることによって、労働歌というものが消えてゆくのか。
というのが、2週間ぐらい前に参加した『ディープ・ブラジル上映会』のときに印象的だったこと(のひとつ)で、そういえば、この日本も、江戸時代なんかは、歌で溢れていた(らしい)ということを思い出したり。
僕の労働も、機械化されているけれど、労働歌だって機械化されている。
音楽を聴きながら、やりたくない仕事をしていて、ふと、そんなことを思ったのでした。
腹筋の割れ目が見えるおなか。柔らかい筋肉は質が良いそうです。
(Merry Christmas!)
先日の近藤等則さんのライブを見ているとき、この音楽の感じは、オノ・セイゲンの『I probably will not remember you』に似ているなと思っていて、翌日に聴き返してみると、本当にそっくりで驚いた。
そっくりというのは、サラウンドであるという点も含めてということなのだけれど、サラウンド効果という点でいえば、断然、オノさんの方に軍配は上がると(僕は)思う。眼前で咆哮するトランペット(やバスクラリネット)、全体に漂う電子音と、サラウンド・デザイン的棲み分けができていて、ときより飛び道具的に背後から主音である金管の音が鳴る感じも、実に効いていると思う。
それに対して、近藤さんのライブでは、もともと響きそうで、残響音も長いであろうホールに、さらに、客席の後方にリアスピーカーを配置することによって、響きの混濁を助長しているように感じた。これでは、サラウンドであることがマイナスには働いても、決してプラスにはなっていなかったと、僕は思っていて、せっかく一般の方々にサラウンド環境で聞いていただける貴重な機会だのに、全くその効果を実感してもらえなかっただろうことが、サラウンド推進派な僕としては残念でしょうがないのだ。
片やライブ、片や録音ということはあるにせよ、ライブであっても、musimissile のように、素晴らしいサラウンド環境が生成されることを考えると、やはり残念でしょうがないと、(数日後に怒りが沸々と湧く感じ、つまり、思い出し怒りで)書いているわけです。
ということで、サラウンド音源収録であるということを昨日知った、ビートルズの『LOVE』でも聴くことにしよう。