あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
今日は仕事始め。そして、ブログ初め。といっても、書きたいことは相変わらず曖昧模糊としてしまっているので、得意(?)の抜粋にて失礼します(笑)。
(前略)「要するに、すべての情報は、その発信母体の呪縛から逃れられない。必ず信号を発する頭脳の思考プロセスによって制限されている。それは簡単に表現すれば、言葉を話すのに時間がかかり、それを認識するのにも時間がかかるからだ、といっても良い。たとえば、現象は並列でも、言葉は直列に並ぶ。その並び替えのプロセスに、発信母体の意図が介在するだろう。そこに制限された境界条件が必ず入り込む。もちろん、言葉と現象の多元対応が、曖昧さを作り、シンボルの選択には、受信側の意思を侵入することになるけれど、これが、発信側の張った網を超越することは稀だ。つまり、この特性を利用することによって、継承による推論が生まれたともいえる」(後略)
森博嗣,著『今はもうない』より、犀川先生による“継承による推論”という思考パターンの解説なのだけれど、僕は太字になっているところに反応しただけで(笑)、これは、甲野善紀さんがさかんに仰っている言説と同じだなーと。
それだけ。
聴き納め。2008年最後は、アドリアーナ・パルチンピン『O SHOW』。先日の mamoru さんの、身近なもので奏でる繋がり(日用品とかおもちゃとか水とか色々なもので音を出したりしているのです)。あ、コーヒーも飲み納め(笑)。
おっと帰省しなきゃ。それでは、皆さん、よいお年を。
奈良へ行ったのは、sonihouse での「家宴(「音」と「食」の高度な家庭的おもてなしを目指すイベント)」に参加するため。相変わらずの「刺激」と「和み」のなんともいえない素敵な塩梅的融合空間。
サウンドアーティスト・mamoru さんのワークショップ+ライブ、面白かったなー。身近な(安価な)ものが奏でる微かな音響。特に、etude no.12 が私的に白眉。クセナキスの「コンクレートPH」のような音響というか。
うん。
メッセージを掲げるのではなく、自然に出てしまう何か=それがメッセージである、か。やってみて(作り終えて)から、ああ俺はこんなことがやりたかった(作りたかった)のか、というやつ。
『黒澤監督 世界の若者と語る』、最後の30分しか見られなかったけれど、とても興味深い、ぞ。
シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(・オブ・ベネズエラ)のアンコール時のはっちゃけぶり(楽器を回したり/椅子の上に立って演奏したり)を見て・聴いたことをきっかけに、クラシックの(決定論的?)“不自由さ”と、それに伴う“自由さ”について考える。
というのも、アンコールのはっちゃけ演奏は(僕的には)ちょっといただけないなー、と思ったからで、オーケストラの(僕が求める)美しさや力強さは、軍隊のように統率された“組織”、そして“抑制”という、ある種の“不自由さ”に起因しているのかもしれない、と思ったから。
そして、それが甲野善紀さんの「運命は決まっていると同時に自由である」という言葉にやんわりと繋がり、その言葉を変化(誤読)させ、「決まっているから、自由である」としてみる。この場合、「自由であるから、決まっている」ということにはならない、つまり、不可逆であると考える。
相変わらず暴走してるなー(笑)。
で、そんなことを考えながら、昨夜、Sachiko M × Jim O’Rourke のフリー・インプロヴィゼーションなライブを聴いていたのでした。
“自由”であることのなんと厳しいことか(!)。