耳(低音型突発性難聴)ですが、その後、一時回復に向いつつも、先週末にまた不調になり、先日からまた復調、という感じ、いわゆる「三歩進んで二歩下がる」です。
というわけで、復調しつつある今日、試しに最近買った、The Alps『Le Voyage』と、Ous Mal『Nuojuva Halava』を聴いてみたり、ついさっきまで João Gilberto in Tokyo を聴いたり。
うん、間隔をおいて(小音量)で聴く分には大丈夫かもしれない。でも、聴いた直後は、長時間ヘッドフォンを使用したときのような、耳の疲労感(圧迫感)があるのも事実。
明後日の通院で終わりにしたかったけれど、もう少し続くかもなー。
なー。
(音楽をまともに聴けない→元気が出ない→ブログを書けない、という循環だと思われるので、通常更新になるまで、もう少しお待ちください…)
音楽を聴いて「歌」や「メロディー」を楽しむことは出来るけれど、「構造」や「テクスチャー」を楽しむことができない、低音が聴こえにくくなると。
というのは、通奏低音がつかめないと「音楽」としてはおもしろくない、なぜなら「構造」的に土台がない、スカスカなものを聴いていることになってしまうから。
(クラシックの名曲の主旋律だけとってつけたポップスの曲に感じる違和感は、構造美を無視して装飾だけ別の単調な構造にくっつけちゃったからだろうなー、関係ないけれど・笑)
そして、低音が(不自然に)ない音には「厚み」や「深み」がない。立体感が失われると、当然「テクスチャー」は不明瞭になってしまう、というわけです。
で、ならば脳内再生で音楽を楽しめばいいじゃないか、となる(?)のだけれど、
音の「テクスチャー」を脳内再生することは難しい(少なくとも僕にはできない)。
んだなー。「構造」はなんとか頑張れば、なんとかなりそうだけれど、音の気持ちいい・おいしい「テクスチャー」はかなり難しい。さらに、両方同時は至難。
つまり、耳よ早く治ってくれ(!)、という話でした(笑)。
はい。
低音型突発難聴(低音障害型突発難聴/急性低音障害型感音難聴)にまたなってしまう。ブログを見ると(こういうときに便利)、4年前と2年前に発症しているから、これで3度目。
今回ショックだったのが、左耳の方が聞こえにくくなっていたこと。前々回、前回では右耳がより悪く、完治後も違和感(実際に聞こえ方が日によって違っていたり)がずっと残っていただけに、今回、例え完治したとしても、左耳にもこの違和感が残るかもしれないと思うと、お、恐ろしい…
日常生活に(ほとんど)支障はないし、音楽を聴けなくなるわけではないけれど、「音」、「オーディオ」という趣味からは、距離をおくことになるのかも。
昨日読んでいた、『談』no.87での長沼毅さんの言葉が過る。
たとえば、アメリカ人は、困難に出会った時になんとかそれを打破しようとする。運命を変えようとするじゃないですか。それは彼らの根本的な姿勢なんだけど、僕は学生に言うんです。やめとけと。変えようとするのは誰でもできる。運命を受け入れる方がはるかに難しいんだよと。でもそれはすばらしいですよ。運命を受け入れると途端に人生が明るくなる。それは奴隷根性だと言われても、いいんだよ、奴隷のカリスマになれと。
今朝から、朝の音楽は、バッハの無伴奏チェロ組曲にする、という実験(?)を開始。月曜は第1番、火曜は第2番、、、、土曜は第6番、日曜はお休み(他の音楽)、という感じ。
なぜ、そうしてみよう、と思ったのかというと、かのパブロ・カザルスがそのように毎日(日曜はお休みだけれど)無伴奏チェロ組曲を1番ずつ練習していたから、という話をどこかで(かなり前に)読んだか聞いたのを、最近思いだしたから。
思い出したのは、朝の音楽がワンパターン化、だいたいグールドの弾くバッハものなのだけれど、いい加減、何年もこの習慣を続けていると、ちょっと飽きてしまっている感じがあって、かといって、いきなり朝からロックやジャズ、その他のジャンルを聴く気はしなくて、やっぱりバッハで頭をパリっと構築的に起動(?)したいわけですよ。
というわけで、上記のようなことを思い出し、実践してみている、というわけです。
はい。