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Archive: Music

よいお年を

聴き納め。2008年最後は、アドリアーナ・パルチンピン『O SHOW』。先日の mamoru さんの、身近なもので奏でる繋がり(日用品とかおもちゃとか水とか色々なもので音を出したりしているのです)。あ、コーヒーも飲み納め(笑)。

おっと帰省しなきゃ。それでは、皆さん、よいお年を。

家宴 -IEUTAGE- 1st anniversary

奈良へ行ったのは、sonihouse での「家宴(「音」と「食」の高度な家庭的おもてなしを目指すイベント)」に参加するため。相変わらずの「刺激」と「和み」のなんともいえない素敵な塩梅的融合空間。

サウンドアーティスト・mamoru さんのワークショップ+ライブ、面白かったなー。身近な(安価な)ものが奏でる微かな音響。特に、etude no.12 が私的に白眉。クセナキスの「コンクレートPH」のような音響というか。

うん。

不自由さと自由さ

シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(・オブ・ベネズエラ)のアンコール時のはっちゃけぶり(楽器を回したり/椅子の上に立って演奏したり)を見て・聴いたことをきっかけに、クラシックの(決定論的?)“不自由さ”と、それに伴う“自由さ”について考える。

というのも、アンコールのはっちゃけ演奏は(僕的には)ちょっといただけないなー、と思ったからで、オーケストラの(僕が求める)美しさや力強さは、軍隊のように統率された“組織”、そして“抑制”という、ある種の“不自由さ”に起因しているのかもしれない、と思ったから。

そして、それが甲野善紀さんの「運命は決まっていると同時に自由である」という言葉にやんわりと繋がり、その言葉を変化(誤読)させ、「決まっているから、自由である」としてみる。この場合、「自由であるから、決まっている」ということにはならない、つまり、不可逆であると考える。

相変わらず暴走してるなー(笑)。

で、そんなことを考えながら、昨夜、Sachiko M × Jim O’Rourke のフリー・インプロヴィゼーションなライブを聴いていたのでした。

“自由”であることのなんと厳しいことか(!)。

オブ・ベネズエラ

グスターボ・ドゥダメル指揮、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ、観てきました。東京芸術劇場。池袋。

いやー、楽しかった。エキサイティング、ファンタスティック(!)。ここ一番(トゥッティ)でのパワー、ドライブ感はもう圧倒的(!)。

これに、彼らが年を重ね、“深み”(とかテンションを保ちつつのある種の“丁寧”さ)が出て来たら最高だろうなー、とか思うけれど、そのときにはこの圧倒的な“パワー”が減衰しているのだろうなー(笑)。

それはそうとして、「クラシック音楽を演奏させることによって、貧しい子供たちを善良な市民に育成し、麻薬や犯罪から守り、社会の発展に寄与させることができるという(国家的)プロジェクト」、素晴らしいと思います。

「音楽は社会を変える力となる」、うん。

今日は、フリー・インプロヴィゼーション。

キューオン

AB誌のマルチフォーカスを読み、そういえばこの部屋にも“妙な響き”があるんだった(とようやく)思い出し、色々試してみたところ、スピーカー間の真ん中、試聴位置の真っ正面にキューオンくんを貼ることによって、“妙な響き”は治まった。

これはこれで、現代美術みたいでいいのかもしれないけれど(笑)、できれば、素敵にアンティークな(デコラな)額を飾りたいと思うのでした。

オーディオが迷走していると、もうひとつ調子がでない、気がする。

あ、水曜に急遽、久しぶりにオーケストラを聴きに行くことに。仕事中に愛聴している OTTAVA amoroso の林田さんが押している、グスターボ・ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネスエラ(長い!)、なんだけど、

ベネズエラの若者たちで構成されたこのオーケストラのもたらす衝撃は、あの「のだめカンタービレ」のR☆Sオーケストラに匹敵するものがあるはずです。

だそうです。本当は、アルゲリッチも出る木曜の公演の方に行きたかったけれど、木曜はジム・オルークなんだなー。