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腹→頭

先日書いた『連塾 方法日本II』に、書いてあったと思うのだけれど、

「腹が立つ」という表現が「頭にくる」、そして「キレる」という風に変化してきている。

だそうだ(意訳)。つまり、「腹」から「脳」にシフトしてきている、ということ。

それを読んで思い出したのが、爆問での末松教授の回で、

腸は第二の脳というより、脳が第二の腸だ。

というような話。ミミズには脳がないのに学習能力(?)などがあり、まるで思考しているかのように振る舞う。腸というのは言わばミミズのお化けみたいなものだから、つまり思考(?)していてもおかしくない、というような話(かなり意訳なので鵜呑みにしないでね)。

さらに、千夜千冊の1345夜『リスクのモノサシ』の参考情報(2)に、

ガードナーは「頭」と「腹」とが別々の推定や判断をしているということをみごとに暴いている。

と書いてあるではないですか(!)、という話。

うーん、なんだか「精神」と「身体」より、「脳」と「腹」という表現の方が良いのかもしれない(?)と思えてきたので、とりあえずガードナー,著『リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理』を読んでみることにしよう。

うん。

ちなみに、「腹が立つ」は義憤、「頭にくる」は私憤、のような気がする。僕の場合。

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推敲していて、「ムカつく」という表現を忘れていたことに気がつく(!)。となると、「腹」→「胸(ムカつく)」→「頭(キレる)」なのか(?)。うーん…

HQD 24bit/48KHz

さっき、「クラムボンのミトさんをototoy事務局にお迎えし、USTREAMにて視聴者参加型の公開インタビュー」というのを見ていたのだけれど、USTREAM + Twitter って凄いなー。色々な可能性を感じる。

リアルタイムってやっぱり良い(強い)。

閑話休題、24bit/48KHzの話。

5月にクラムボンの8thアルバムのリリースが決定! そのアルバムに先駆けてアルバム収録曲、そして前回の野音で初公開され話題になった新曲「tiny pride」を、ototoyで一週間限定フリー・ダウンロード。しかも、HQD(24bit/48KHzのWAVファイル)のフルバージョン!

という太っ腹な、素敵な話。だったので、良い音普及への応援の意味も込め、先行(?)して、クラムボンの配信限定の高音質HQDシングル「NOW!!!」、というのを買ってみたわけです。さっき。

で、聴いてみると、予想通り、通常のCD(16bit/44.1KHz)の音と大きくは変わらない(笑)。これは、坂本龍一さんの『out of noise』の24bit/48KHzを聴いたときもそうだったのだけれど、理由は、僕のDACが16bit/48KHzまでしか対応していないこと、つまり、本領を発揮されていないからだと思う、多分。

というのも、24bit/48KHz対応のDAC(さらに10MHzのクロックを使用)しているスタジオK’sで『out of noise』を聴いたときは、CDの世界とは明らかに別次元の音空間が展開されたし、ビートルズの24bit/48KHz音源のあまりの鮮烈さにぶっ飛んだ、という経験があるから。

で、何が書きたいのかというと、24bit/48KHzは主流になりえるか、ということ。僕としては、もちろんこれからの音楽メディアの主流のひとつになって欲しいのだけれど、一般的な再生環境(?)でどれくらいの差異を出せるかというの点に関しては、かなり懐疑的なわけです(音は iTunes などで簡単に出るけれど、本当のハイレゾリューションな音を聴けていないわけだから)。

で、その答え(の断片)が、クラムボンの無料配信によって(Twitter などでの皆さんの感想によって)、少し分かりそうだなー、と思っているのでした。

まあ、違いの分かるこだわりの人(笑)は、多少高価でも24bit/48KHz、一般的にはMP3という風に落ち着くのだろうけれど。

というわけで(?)、続く。

侘び・数奇・余白

松岡正剛,著『連塾 方法日本II 侘び・数寄・余白 アートにひそむ負の想像力』を読み終える。途中、うまく理解出来ず、興味を失いそうになるが、岡倉天心やイサム・ノグチなどの興味ある話で盛り返し(笑)、結果、とってもおもしろかったなー。

方法日本の本質を説明するには、芸術と芸能はゼッタイに欠かせないのです。ですから本書の全篇を通して、日本の歴史や現在の文化の根底には「ウツ」と「ウツツ」、「尽くし」と「引き算」、「執着」と「遁世」、「型」と「型破り」といった両極の作用があること、それらがあたかもリバースするように行ったり来たりし、また魔法のように重なっていくかのように組合わさってきたのは、いったいどうしてかという話になっています。

というような内容です(あとがきより)。

自分が理想としてきたデザインの本質は、方法日本、まさに日本的なものだったということに気が付けたことが一番の収穫。これからも「やつし」で行きます。

そして、僕の音楽の趣向についても、ひとつの説明ができたような気が(また書きます)。

もっとも病弱の美というか、弱さの強さというものもあると思いますからね。フォルテではない、ピアノな凄みに向かってください。

僕もその方向でいきたい。