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小海町高原美術館



小海町高原美術館の外観。安藤忠雄さんらしいコンクリート打ち放し+幾何学的なデザイン+緑。

この美術館は、守矢史料館にて偶然見つけたパンフレットで知ったので、着いたときには(ちょっと迷ったりもしたので)すでに閉館時間だったりしてですね、ならば外観だけでも見ていくか、ということに。

オモテからは、あまり見られるところは少ないのだけれど(写真1)、裏側に回ると展望台(写真3)があったりして、そこから美術館と八ヶ岳(写真2)を見ることができたり、美術館の上に登ったりして、なかなか楽しめる。

中を見ずに建築をだけを見ていたからか、何年か前に行った淡路夢舞台を思い出す。なんというか、好き勝手に作ったというか(笑)、建築が主役というか。まあ、つまり巨大なアート、ということです。

そういう意味でいうと、地中美術館がやっぱり最高なわけで、また行きたいなー、と強く思ってみる。

あ、小海町高原美術館は、SPレコードを所蔵しているそうで、カザルスの無伴奏チェロなんかはちょっと聴いてみたかったなー。残念。

御頭祭

えー、守矢史料館、「御頭祭」の展示の一部、うさちゃんです。写真で見たことはあったけれど、同じような小動物を飼っている身としても、ちょっと衝撃でした。

手(前足)とか、真っ白なお腹がかわいいので思わず触りたくなる、が、死んでいる、ぶっ刺されている。そういう感情の揺り返しから、なんとも不思議な感覚が呼び起こされる。

僕にとってはアートです、ぶっ刺しうさちゃん。

後で、森美術館で見たデミアン・ハーストの「母と子、分断されて」(分断されたホルマリン漬けの牛ね)を思い出す。

とにかく、守矢史料館とその周辺は(僕にとっては)とても素晴らしいところ。何もないようで(あるもの、見るものが少ないようで)、何かがあるところ。場の力、というやつも絶対に関連している、とも思う。

また行きたい。

高過庵



守矢史料館の近くにある高過庵に、ついでのついでに(というかもちろん)行ってみる。

こちらは想像以上にかわいい(!)。周りの里山な風景に馴染んで“いる”ような“いない”ような、“建っている”のだけれど“浮いている”ような、心地よい違和感満載(!)。

これを見てわくわくしない人はいないでしょう(笑)。

建築をあれだけ(詳しくしりませんが)研究してきた人が、頭でっかちにならず、こういう(古いような新しいような)方向でもって、こういうものを作ってしまうことに、写真や映像で見てきた認識より、大きく驚く。

つづく。

神長官守矢史料館



昨日は、同居人の久しぶりの休日(つまり今日は働いている)だったので、得意の「車でどこかへ行きたい」ということになり、どこか涼しいところへ、長野の蓼科中央高原へ行こう、ということに。

2,000メートルを超える高さの高原(山?)を車でビュンビュングイングイン疾走。新鮮且つ涼しい空気がなんとも気持ちよいことに。

で、ついでに、その前後に、神長官守矢史料館(藤森照信設計)と小海町高原美術館(安藤忠雄設計)へ行く。

で、上の写真が、神長官守矢史料館。展示品も含め予想以上に素晴らしいところ(!)。歴史的・土着的(?)なテクスチャーによって、そんな雰囲気が醸し出されている建築だけれど、構造(立方体に倒したショートケーキをぶっ刺したような構造)は現代的、ということに、実物を見て初めて気が付く。さすがは藤森先生。かわいくてノスタルジーなだけじゃなかったんですね(当たり前ですね)。

それと、一番上の写真(史料館手前のスペース)の奥に見える“ほこら”とその前の空間がまた素敵。日本的な“神”の存在をうっすらと感じつつ、しばしぼーっと涼んだり。

つづく。

ターナー賞の歩み展

昨日は、森美術館にて「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」。ターナー賞の趣旨には賛成ですし、デミアン・ハーストの作品を生で見たくて行ったのだけれど、写真で見る以上に感動するという事態にはならず。展示の仕方なのか、僕の感受性が鈍いだけなのか(笑)。

(あ、行こうと思っている方、六ヒルのショップに割引チケットが置いてありますよ)

あと、美術館で映像の作品を見るケースが近年圧倒的に増えているけれど、僕は(ほぼ)まともに見続けられたことはなくて、「展示方法をどうにかしなきゃいけないんじゃないか(画質・音質の向上も含む)」と、いつも思ってしまう。

あと、子どもと現代アート。子どもを持つと考えが変わるのかもしれないけれど、やはりアートを鑑賞する際、「(いわゆる)子どもは邪魔でしかない」と、いつも思ってしまう。

どうなんでしょうか。