先月の末に、内田樹さんのツイートだかリツイートだかで、森田真生さんのロングインタビューがあることを知って、尹雄大(ユン・ウンデ)さんがやっている「プリセッション・ジャーナル」を読みまして、で、ようやく森田さんの面白さ、ユニークさを理解できたかもしれない、というのがありまして(というのも、実は森田さんの話を2回ほど聞きに行ったことがあるけれど、僕には彼の面白さがよく分からなかったのだ)。
で、これはきっとインタビュワーが良いに違いないと思い、尹雄大さんのホームページをじっくり見ていると、なんと、ずっと前に読んだ「FLOW―韓氏意拳の哲学」の著者さんではないか(!)、という驚きが。
というわけで(?)、ここ最近は、尹雄大さんをハブに色んな興味深い人を見つけて喜んでいるのでした(MAMMO.TVのインタビューもおもしろいよ)。
正月の楽しみにとっておいた、小澤征爾×村上春樹,著『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読み終える。グールドやらバーンスタインやらカラヤンのことなどなど、予想通りに興味深く、楽しい。
特に惹かれた箇所は、「グスタフ・マーラーの音楽をめぐって」と「スイスの小さな町で」(小澤征爾スイス国際音楽アカデミーについて)のところ。
というのも、僕が生でオーケストラを聴いて最も感動したのがマーラー(6番)だし、クラシックにのめり込むきっかけになったのも、NHKで同じような音楽アカデミーのドキュメンタリー(講師はアイザック・スターン)を見たことだったから。
というわけで、今年はクラシックをもっと聴こう、と思うのでした。
長沼毅,著『世界をやりなおしても生命は生まれるか?』、読了(読み始めて、何年か前に読んだ、池谷裕二,著『単純な脳、複雑な「私」』と同じ「高校生との講義シリーズ」であることに気付く…)。
海底火山・地下に広がる生物圏、L-システムという生命のルールなどなど、刺激的な話がたくさんあったけれど、僕が一番惹かれたのは、第4章「生命は宇宙の死を早めるか?」の「生命は渦巻きだ」のところ、渦巻き=代謝する「パターン」→生命の本質はパターン? という流れ(痺れる)。
そして、「生命とは非平衡開放系における散逸構造である」ですか、ですよね。というわけで、久しぶりにプリゴジンを読み返したいと思います。
はい。
大和田俊之,著『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』、ようやく読了。
「偉人」を中心に語られる歴史ではなく、「社会の力学」を中心に描く歴史、つまり、エイドリアン・フォーティーの『欲望のオブジェ』や『言葉と建築』の音楽版かも、と思い、買い求め読み始めたのだけれど、内容は多分そんな感じ(笑)。
“アメリカのポピュラー音楽を駆動してきたのは「他人になりすます」欲望である”(今の分かりやすい例でいうとレディー・ガガ?)、つまり、<偽装>をテーマに読み解いていくのだけれど、なかなか興味深いです、よ。
あと、黒人の音楽、白人の音楽、という風に簡単に分けれない(お互いに<偽装>している)ことや、そこに、ヒスパニックやラテンアメリカという第三項の導入なども、ふむふむ。
以下メモ:
ビバップの成立よりもモード・ジャズの完成の方がはるかに重要、という解釈(非西洋、コードという重力からの解放)。「カインド・オブ・ブルー」の水平性、空間性。
中世ヨーロッパからのバラッドの伝統、アフリカや南米経由の黒人文化、この2つの融合を象徴するのがエルヴィス・プレスリー(ビートルズやローリング・ストーンズよりも重要、という解釈)。