先日、友人とお好み焼きを食べながらお話ししていると、友人が「もっと科学的にさあ」とか「ちゃんと科学されてない」など、「科学」という言葉を妙によく使うではないか。いわゆるメディアがよく使う「科学」(科学的に実証された=だから正しいとか、その逆ね)という言葉に嫌悪感を持っていた僕は、彼の使っている「科学」も同じようなものだろうと思い、科学主義批判を始める。
ここで、僕と彼が友人でなかったら、ふつう喧嘩になっちゃうんだけれど(笑)、僕達は友人だから、もちろんそんなことにはならず、建設的な“会話”が継続され、僕のいう「科学」と彼のいう「科学」が違うものだということに(当たり前ですね)気が付く。
一度辞書を引いて調べた方がいいよ、と彼がいうので、さっき(大辞泉で)調べてみると、確かに彼のいうような意味が書いてあった。
一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。
これならば僕も好きだし、大賛成。続いて、
また、その成果としての体系的知識。研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。(中略)広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。
うーん、なるほど、僕は「狭義の科学」、というか、自然科学的な絶対性・普遍性でもって社会科学・人文科学を語る科学者・フォロワーを無自覚に批判していたのだなー、と認識。
人の精神性(や身体性)が関わってくる事象に、“絶対”とか“普遍”を持ち出すのはちょっと難しいと思うよ(“ある”ようで“ない”ような?)。
うーん、嫌うあまり、いつのまにか「科学」をひとかたまりとして見ていてしまったようだ。そういう考え方が嫌いなのに(ゆえに?)。
落とし穴はいっぱいある。
つづく(かも)。

やや夏バテ気味。猫も体調悪し(回復中)。明日(というか今日)は力仕事。なので、早く寝る。



小海町高原美術館の外観。安藤忠雄さんらしいコンクリート打ち放し+幾何学的なデザイン+緑。
この美術館は、守矢史料館にて偶然見つけたパンフレットで知ったので、着いたときには(ちょっと迷ったりもしたので)すでに閉館時間だったりしてですね、ならば外観だけでも見ていくか、ということに。
オモテからは、あまり見られるところは少ないのだけれど(写真1)、裏側に回ると展望台(写真3)があったりして、そこから美術館と八ヶ岳(写真2)を見ることができたり、美術館の上に登ったりして、なかなか楽しめる。
中を見ずに建築をだけを見ていたからか、何年か前に行った淡路夢舞台を思い出す。なんというか、好き勝手に作ったというか(笑)、建築が主役というか。まあ、つまり巨大なアート、ということです。
そういう意味でいうと、地中美術館がやっぱり最高なわけで、また行きたいなー、と強く思ってみる。
あ、小海町高原美術館は、SPレコードを所蔵しているそうで、カザルスの無伴奏チェロなんかはちょっと聴いてみたかったなー。残念。
『事典 世界音楽の本』、「3.3.2.2 聴衆の変容」より抜粋。
音楽は「鳴り響きつつ運動する形式」にほかならず、それを捉えることによってのみ精神的な価値あるものになるとし、それを感情や快と結びつけたりする聴き方を邪道として排除しようとしたハンスリックの音楽美学思想はその代表である。
音楽美学思想、という思想があったのか。僕がある種の音楽を聴くときは、このモードかもしらん。
かつてアドルノは『音楽社会序説』の中で聴衆をいくつかに分類したが、その際、楽曲全体を把握し、構造的に聴取できる理想的な聴衆と対照的な位置に、音楽を娯楽としてしか聴かず、細切れの表層的な刺激を受け取る散漫な聴取に終始するタイプの聴衆を挙げ、批判した。
うーん、でも後者的でもあるなー(笑)。
しかしながら、“今”を考えると、この「純粋鑑賞」というような聴衆は消えつつあるように感じる。音楽が副次的であった長い長い前の時代・文化の在り方に戻りつつあるというか、もともとそういうものだったというか、幻想だった、というか。
鼻歌=iPod、労働歌=BGM、祭り=ライブ(やクラブ)、というようなのが本来的な音楽の在り方なんだよなー、というか。