Mudai
やや夏バテ気味。猫も体調悪し(回復中)。明日(というか今日)は力仕事。なので、早く寝る。
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やや夏バテ気味。猫も体調悪し(回復中)。明日(というか今日)は力仕事。なので、早く寝る。
小海町高原美術館の外観。安藤忠雄さんらしいコンクリート打ち放し+幾何学的なデザイン+緑。
この美術館は、守矢史料館にて偶然見つけたパンフレットで知ったので、着いたときには(ちょっと迷ったりもしたので)すでに閉館時間だったりしてですね、ならば外観だけでも見ていくか、ということに。
オモテからは、あまり見られるところは少ないのだけれど(写真1)、裏側に回ると展望台(写真3)があったりして、そこから美術館と八ヶ岳(写真2)を見ることができたり、美術館の上に登ったりして、なかなか楽しめる。
中を見ずに建築をだけを見ていたからか、何年か前に行った淡路夢舞台を思い出す。なんというか、好き勝手に作ったというか(笑)、建築が主役というか。まあ、つまり巨大なアート、ということです。
そういう意味でいうと、地中美術館がやっぱり最高なわけで、また行きたいなー、と強く思ってみる。
あ、小海町高原美術館は、SPレコードを所蔵しているそうで、カザルスの無伴奏チェロなんかはちょっと聴いてみたかったなー。残念。
『事典 世界音楽の本』、「3.3.2.2 聴衆の変容」より抜粋。
音楽は「鳴り響きつつ運動する形式」にほかならず、それを捉えることによってのみ精神的な価値あるものになるとし、それを感情や快と結びつけたりする聴き方を邪道として排除しようとしたハンスリックの音楽美学思想はその代表である。
音楽美学思想、という思想があったのか。僕がある種の音楽を聴くときは、このモードかもしらん。
かつてアドルノは『音楽社会序説』の中で聴衆をいくつかに分類したが、その際、楽曲全体を把握し、構造的に聴取できる理想的な聴衆と対照的な位置に、音楽を娯楽としてしか聴かず、細切れの表層的な刺激を受け取る散漫な聴取に終始するタイプの聴衆を挙げ、批判した。
うーん、でも後者的でもあるなー(笑)。
しかしながら、“今”を考えると、この「純粋鑑賞」というような聴衆は消えつつあるように感じる。音楽が副次的であった長い長い前の時代・文化の在り方に戻りつつあるというか、もともとそういうものだったというか、幻想だった、というか。
鼻歌=iPod、労働歌=BGM、祭り=ライブ(やクラブ)、というようなのが本来的な音楽の在り方なんだよなー、というか。
えー、守矢史料館、「御頭祭」の展示の一部、うさちゃんです。写真で見たことはあったけれど、同じような小動物を飼っている身としても、ちょっと衝撃でした。
手(前足)とか、真っ白なお腹がかわいいので思わず触りたくなる、が、死んでいる、ぶっ刺されている。そういう感情の揺り返しから、なんとも不思議な感覚が呼び起こされる。
僕にとってはアートです、ぶっ刺しうさちゃん。
後で、森美術館で見たデミアン・ハーストの「母と子、分断されて」(分断されたホルマリン漬けの牛ね)を思い出す。
とにかく、守矢史料館とその周辺は(僕にとっては)とても素晴らしいところ。何もないようで(あるもの、見るものが少ないようで)、何かがあるところ。場の力、というやつも絶対に関連している、とも思う。
また行きたい。