クオリティが低いということは不自然だ。なぜなら、自然は、その全てがハイ・クオリティであるから。
かどうかは確信できないけれど、自然物というか動物とか昆虫とか植物は、本当にハイ・クオリティだなーと、この頃よく思う。キョロロで見た、色々な種類のカブトムシやクワガタなど、子供達が夢中になるのは無理がないなと思うくらい(こんな言い方はおかしいけど)よくできている。人間大に拡大した昆虫の写真群も、色々なことを雄弁に語っていたように思う。
猫を飼ったときも、赤ちゃんを見るときも、やはり同じように「よくできている」、そして「これは作れない」と思う。
「機能美」というより、「システム美」なのか。なんて。
愛猫が初めて枕を使ってくれました記念。(いい加減、本棚を整頓しなければ。)
昨日は、オペラシティにて、セミナー「Web2.0時代のPublishingツール最前線」を受講後、ICCで「キッズ・プログラム」、アートギャラリーで「インゴ・マウラー展」を鑑賞、その後、オペラシティのすぐ近くにある建築家のアリメさんの事務所へ。
「アアルトのフラワーベースが!!」(上の写真)
そこで、上の写真のような衝撃的な風景に出会う。さすがアリメさん。既成概念に囚われてはいけないのだ。と、これに象徴されるように、僕の思想(といえば大げさだけど)の核となっていたことも、コロッと転がされつつ、終電までお話しする。
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インゴ・マウラー展でみた、テンセグリティ構造の「ライト・ストラクチャー」に釘付けだったけれど、あれ、点けると明かる過ぎなんだろうなー。
芸術における「クオリティ(完成度)」について、結構長いスパンで考え続けている。越後妻有アートトリエンナーレで感じたクオリティの低さ、あるいは格差は、僕にある確信めいたものをもたらした。(このトリエンナーレについては、REAL TOKYO にて小崎哲哉さんが触れられていて、これにはすごく同感。)
学生の頃には、「クオリティよりもコンセプト」もなんてほざいていたけれど、そういう考え方は、科学的細分化のもたらした弊害であって、「クオリティ」も「コンセプト」の具現の重要な要素であることに気付いていなかったのだ。(例えば、池田亮司が指摘しているように、ミースから完成度の高さを除いたらどうなるか、または安藤忠雄からクオリティを奪ったらどうなるかを考えて欲しい。)
「どちらか」という考えは捨て、もっと「包括的」に考えるべきなのだ。なんて。
タワレコのカードがたまっていたので、god-zi-lla さん書かれていた、グルダが弾く「ベートーヴェンのピアノソナタ全集+ピアノ協奏曲全集CD12枚組ボックス」を買おうと思って、吉祥寺のタワレコに行ったのだけれど、グルダを見つける前に、上のものを見つけてしまう。(結局、吉祥寺店にはグルダはなかったけれど)
いくつかのブログで、この「高橋悠治コレクション」の存在は知っていたものの、お金のない僕は、知らないふり・興味のないふりをしてきたのだけれど、見てしまったからにはもう遅い(笑)。13枚全部はもちろん買えないので、『ゴルトベルク変奏曲』と、もうひとつはかなり迷って、『ディスタンス・ヴォイセス』を買う。
『ゴルトベルク変奏曲』は、確か(高校生の頃に夢中になって読んでいた)村上龍が、どこかで「悠治さんのゴルトベルクは素晴らしい」みたいなことを書いていて、かなり昔から興味を持っていたもの。実際聴いてみると、僕が漠然とイメージしていた演奏・音とは全く異なるものだった。まず、「かわいい」、そして「自由」とか「くねくね」とかいった感想。実に、おもしろい。
でも、やっぱり僕にとっての『ゴルトベルク変奏曲』は、グールドの最後の録音の方であります。アリアから変奏曲へのダイナミクスが、いつ聴いても鳥肌!(エスクァイアに載っていたソコロフのも気になるが)
シンセサイザーで弾いている『14カノン』も圧倒的にかわいいし、高橋悠治+佐藤允彦のプレイも凄まじい。やっぱり、全部欲しい。。